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2010年5月6日木曜日

011_グループ展「現代存在派展」展示作品






廃車も色んな動物の住処だったり子供達の隠れ家だったり農夫の雨宿り、喫煙所だったり。朽ち果てるまでそこにあるんだろうなと。私有地っぽいから、公認なんだろうなと。で、ただなんとなく、ナウシカ思い出したんだ。なんでかわからないけど。

032_Kounomai_Noboribetsu_Sapporo_Kitamimonbetsu

いったいどういうバランスで残っているのか、他の部材の残骸はどうしたのか、誰かがかたづけたのか、それとも焼失したのか...なぞの多い壁だけ廃墟である。もはや空間を成していない建造物なのに奇妙な空気の記憶だけが残っていそうである。























蝦夷鹿の白骨。屍骸を、肉がついた状態のまま土に埋めて放置するのだそうだ。様々な生物が上手に食いつくして、奇麗な白骨となるらしい。あとは掘り出して雨ざらしの天日干しでバクテリアや細菌がいなくなったところで装飾品にするらしい。




古道具の持つ空気は、「本物」の臭いがする。様々な修理道具や修理技術とともに使い続けられて来た物ならば尚の事、長寿の歴戦の老兵の様なそこはかとない重みがある。古びてカビ臭い書籍にもまた同じ空気を感じるのはなぜだろう。

下、おそらく、崩落した雑貨屋?商店の廃屋。左中断ほどに、昭和天皇のお写真が飾ったままになっていた。ほうきの横に、おそらく人が住んでいた時のままに。必要な物だけ持って引っ越したのか、人だけが先に消滅したのかわからないが、町が死ぬという事はこういった事なのだろう。

025_グループ展「Cabaret Tapio」展示作品











































煙突と壁だけが、風に吹かれたら倒れそうなバランスで立っていた。死んだ町の死んだ学校。あまりにも車が通らなすぎてご覧の通りの道があった。死に行く道路。何処にあるかは秘密。場所もモデルもそうだけど、教えると、ろくな事にならないね。

2010年5月2日日曜日

024_個展「沈黙の理由」展示作品










※作品シリーズのいくつかに表現されている「肉体から飛び出ている赤い物」は、
傷口や肉片を表しているのではなく、ナニカの宇宙的もしくは
呪術的パワーにより肉体が変化しようとしている様子を
フィクションで製図、画像合成したものです。また、炎に包まれた表現は
火災現場ではなく、宇宙戦争や魔術戦争のようなSF的な物語ですのでご了承下さい。



















































































理由は言えないし、結局後付けになるのが関の山。感じた事を感じたまま。もしくは感じやすいように、感じられるシチュエーション、または素材。到達点のイメージはないのだ。もがいてもがいてたどり着く作業がいつもの個展の作品作りだ。撮らされて、向かわされて、たどり着こうとして最後に見えたもの、そこでサインを入れなければ終わらない画家の心境に似た作業は孤独に繰り返されていく。気がついたら物語がうっすらと見え始めて連作の骨が見えてくる。そうしてはじめて気がつくんだ。ああ、だからこうして撮影したんだなと。

023_個展「沈黙の理由」展示作品























































解らない。脆弱なのか強靭なのか。柔らかい物なのか、鋭い刃物なのか、あるいは、その全てなのか。理解しようとすればするほど混乱してゆく。わかってしまった時点で、それは既成イメージの押し付けになってしまって、距離が遠くなってゆくばかり。苦しみも悲しみも時代を受難する不平等な感受性も、そしていびつになった幼さや甘えた心も。自分の心の奥底に潜んでいる物は、意外と我慢強く努力家的な部分が骨格を作っているのだと信じたい。尊厳という名前の守るべきナニカ。のために。戦おう。せめてそのナニカのためには。

022_個展「沈黙の理由」展示作品




























































































何度飛び立とうと重い心に鞭打って羽ばたいても、物凄い力で壁に叩き付けられるその感じ。あきらめたくも、すがりたくもなる。生きる事の残酷さ、楽しもうとする事の残虐さ、種族単位の多数決な異物排除本能。感受性の自由ほど他人に迷惑をかけないレベルのささやかなフィールドはないはずなのに。画一化した意識による攻撃は、攻撃する側の精神の均衡を保つためだけに発せられる焼夷弾。そんな不安定な安心に心を委ねるほど愚かではないが、画一化した価値観のもとでしか、日々の糧を得られないのが社会集団の生かされる仕組みでもある事は充分承知している。そんな中、ささやかな理解のひと言が、たったひと言が癒しの魔法のように心の痣をリセットしてくれる事も稀にはあるのだが。

021_個展「沈黙の理由」展示作品






























































「女性鑑賞家」と自分の肩書きを名乗る以前には、「セラピー・フォトグラファー」であったり、「エッセイ・フォトグラファー」と名乗っていた。いずれも気恥ずかしい肩書きだが。しかし、カメラマンでも写真家でも、フォトグラファーでもなんとなく自分の活動に誤解がつきまとう気がしてならなかったのだ。色々と社会や出会いに翻弄されたり過剰に期待されたりと右往左往の人生の中で養われた感性が「これはわかる!」といったナニカを残したいだけなのだ。ポートレート撮影でもそれが言える。「じれっったい」や「がまんできない」「いったいどうするの」など、ひと言で言い表せそうなテーマを先に感じ、その表情を先回りすればよいのだ。当たり前と言われれば、そうなのかもしれないが。