次第に同業者がやたらと増え、自分の特色を出すためにデザインに使えるイメージ写真や、バック素材に使えるテクスチャ等を自分でライブラリするようになった。リバーサルフイルムを小型カメラに装填して持ち歩きである。ネットのない時代、海外のデザインは洋書を購入する以外は、自分でせっせと研修に出かけ、様々な印刷物や、デザインされた物ならなんでも写真に撮りまくって持ち帰るしかない。デザインの可能性を広げるための刺激は自ら探す、お金の使いどころは「研修旅行と様々な体験」そういった時代の話だね。
気がつけば、世の中のレンタル写真のリース会社はどんどん発展し、努力しなくてもお金を出せばたいがいの物が借りられるようになってゆき、カタログを見てイメージを選ぶ様な風潮が出始めていた。市場自体があらゆる物に飽きが来て、色々と変わりネタや壊れネタの多く生まれたニューウエーヴ、80年代が終わる。
なにかと怪しい’90年代には「自動版下制作機」なるもの? シートの文字を切り抜くプロッターの刃物をロットリングに付け替え、トンボを引いたり、図形を書かせるというシステムが出始めた。ワープロ入力による電算写植の普及で、データ入稿という言葉も生まれていた。業界が変化する臭いが漂い始め、’90年代はじめには、2億円近くするGraphic Paint box等で画像処理をおこなった広告が出始めた。自分の東京の知人も、その機械を購入し、先代から受け継いだ製版会社を、画像処理能力の高いデザイン会社へと変貌させていた。遊びにこないかと誘われ、2点ほど思いつきのまま、画像合成を楽しませてもらったら、「コンピューターデザイニング」という専門誌で紹介された。まだまだMacは、白黒の時代。代用写植機、作図機であった頃の話である。
いよいよMacが800万以上もしたセット内容が200万以内で揃うようになる。ウインドウズ95が発売され空前のパソコン時代もやって来た。パソコン通信が日進月歩で進化する。広告業界は完全に産業革命を迎えてる。デジタル時代の幕開けである。弱小デザインプロダクションの’96と言えば、バブル崩壊後のデフレの波とIT革命の荒波を受けて、ダブルパンチ。こつこつと10年以上営んできたアナログ広告制作会社も極端な経営難に突入。
ようやく、パソコンとモノクロレーザープリンターが一式で150万になった。いよいよ生活を切り詰め、デジタル化に挑んだのだった。
しかし「コピペで済むなら仕事は激減する」と直感し、配給素材を使わず無いものを作る現場に比重を置かねばならないと考えた。自分でやれる写真と文章ならばすぐ個性作りが出来る。しかしジャンルが広すぎると個性が出せなくなるし、自分のスペシャリスト感が定着しない。そこで、誰もが向かう衣食住交通官学の必需テーマから逃げ、ススキノのお膝元性産業の広告需要にシフトした。
それまでの自分の活動とあまりの違いに気恥ずかしくなり、あれこれ思案の末、「春象」と名乗り出した。田舎のセクシー写真家ということで、一山当てた。正直キャバクラの帝王みたいな、いい思いはした。とか、いいながら、機材購入・リース上乗せ入れ替え、周辺機器、消耗品と、軽く金利込みで結局1,000万以上は使うハメになるんだが。
それでもって、独立市場だったススキノにも刺客が続々乱入してくる。風俗専門の大手広告代理店やら雑誌が中央からの参戦。某企業は媒体さえ買えば、なんでもタダでやり始める。まずはライバル殺しと、店の依存体質洗脳ね。お金に対する本気度がちがう。てか、裏は不動産屋だったり他所の街で風俗業やってたりと、土俵のでかさがちがうわな。
さて、自分は何処に向かおうとしているのか。キャリアを生かすのか、捨てるのか。
見る人の感性の問題だしね。価値観もそう。
任せておけばいいもの作るんだが、
求められてるものがワンパターンじゃ、つらいよなw
*80年代は、マンション広告や宅地造成の計画書作成から販売広告。そして、ホテル、レストラン、美容、ファッション、旅行業界を中心にいかにも広告マンといった感じで。次第に、学習塾、パチンコ、健康産業、食品メーカー、地域振興型イベント広報、バリアフリー住宅関連、薬局、そして90年代は雑誌関連、放送関連、文化系NPO、社会活動系と複雑になり、90年代後半からいよいよぶっちゃけて深夜飲食業、風俗業、ストリップ、エロ雑誌.........と、広告の請負い先が転向していった訳です。おかげで、あらゆる業種・商品に対する根本理解度は増してゆきました、と。今、書いてて気がついた。仕事は出来ても、ケンカ商売が下手なんだね、俺って...。争いを避けて来たのかも。