すべては、あなたと出逢うため。心の奥底で世界のつながりを感じあうため、表現とはそういう希望を孕んだ一筋の放物線。地に落ちるその前に、あなたの胸の奥底に引っ掻き傷を残したい。そのかさぶたの内側で、あなたを悩ませたいとさえ思っているのかもしれない。
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2010年5月2日日曜日
024_個展「沈黙の理由」展示作品
※作品シリーズのいくつかに表現されている「肉体から飛び出ている赤い物」は、
傷口や肉片を表しているのではなく、ナニカの宇宙的もしくは
呪術的パワーにより肉体が変化しようとしている様子を
フィクションで製図、画像合成したものです。また、炎に包まれた表現は
火災現場ではなく、宇宙戦争や魔術戦争のようなSF的な物語ですのでご了承下さい。
理由は言えないし、結局後付けになるのが関の山。感じた事を感じたまま。もしくは感じやすいように、感じられるシチュエーション、または素材。到達点のイメージはないのだ。もがいてもがいてたどり着く作業がいつもの個展の作品作りだ。撮らされて、向かわされて、たどり着こうとして最後に見えたもの、そこでサインを入れなければ終わらない画家の心境に似た作業は孤独に繰り返されていく。気がついたら物語がうっすらと見え始めて連作の骨が見えてくる。そうしてはじめて気がつくんだ。ああ、だからこうして撮影したんだなと。
023_個展「沈黙の理由」展示作品
022_個展「沈黙の理由」展示作品
何度飛び立とうと重い心に鞭打って羽ばたいても、物凄い力で壁に叩き付けられるその感じ。あきらめたくも、すがりたくもなる。生きる事の残酷さ、楽しもうとする事の残虐さ、種族単位の多数決な異物排除本能。感受性の自由ほど他人に迷惑をかけないレベルのささやかなフィールドはないはずなのに。画一化した意識による攻撃は、攻撃する側の精神の均衡を保つためだけに発せられる焼夷弾。そんな不安定な安心に心を委ねるほど愚かではないが、画一化した価値観のもとでしか、日々の糧を得られないのが社会集団の生かされる仕組みでもある事は充分承知している。そんな中、ささやかな理解のひと言が、たったひと言が癒しの魔法のように心の痣をリセットしてくれる事も稀にはあるのだが。
021_個展「沈黙の理由」展示作品
「女性鑑賞家」と自分の肩書きを名乗る以前には、「セラピー・フォトグラファー」であったり、「エッセイ・フォトグラファー」と名乗っていた。いずれも気恥ずかしい肩書きだが。しかし、カメラマンでも写真家でも、フォトグラファーでもなんとなく自分の活動に誤解がつきまとう気がしてならなかったのだ。色々と社会や出会いに翻弄されたり過剰に期待されたりと右往左往の人生の中で養われた感性が「これはわかる!」といったナニカを残したいだけなのだ。ポートレート撮影でもそれが言える。「じれっったい」や「がまんできない」「いったいどうするの」など、ひと言で言い表せそうなテーマを先に感じ、その表情を先回りすればよいのだ。当たり前と言われれば、そうなのかもしれないが。
020_ポートレート
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